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2021年04月21日

眼が見えなくて2週間なんも出来なかった話し②

東京の有明港に午前5時着。そこで妻は電車で出勤するため別れ、私は新たに運転代行業者に15,000円ほど支払って、さいたま市の駐車場まで運んでもらった。

眼が見えなくて2週間なんも出来なかった話①
https://seasonbest.naturum.ne.jp/e3408631.html の続きです。





私の住む『さいたま市』には関東でも指折りの名眼科医がいる。病院の敷地内には往年の名機『EF66』と『EF81』が並び、最近、駐車場の入口には
『踏切』が設置されたマニアの心くすぐる眼科専門病院、それが『ほしあい眼科』。


院長に診てもらうと「あーこれは手術だねr。明日来れる?」


私の症状は『網膜硝子体出血』。おそらく吉野川に岩の上から飛び込んだ時に眼の中の血管が切れたのだろう。さらに『白内障』も進行していたので網膜のレンズを剥がし人工のレンズを眼球をちょいと切って入れると言う。

手術台に乗り私は「全身麻酔を希望します。」と告げたが「そんなの無い」と言われ眼の局部麻酔をされて、それからは私の眼をごちゃごちゃと長い時間いじられている。ひえ〜っ。



オペは30分ほどで終了、すぐに家に帰って良いと言われる。病院のサービスで自宅まで病院の車で送ってくれるのだが、両目を包帯でグルグル巻かれている私に「県立川口高校卒の○○さんですよね?」と病院スタッフに声掛けられた。

「私、同じクラスだった△△です!」
「あ〜△△クンかぁ!俺、野球部だったからあまり覚えていないけど、確かテニスやってたよね?」
「そうです〜」

思いがけない30年ぶりの再会となり帰りの道は昔話に花が咲いたが、結局懐かしい友の顔は見るコトが出来ずに帰宅となった。



ほしあい眼科(埼玉県さいたま市緑区)
https://hoshiai-ganka.com/


手術後約2週間で眼帯は取れて視力も順調に回復したが、本当の「試練」はここからの「治療」だった。

眼球の毛細血管がまた切れて出血しないように院長から「『レーザー治療』をするよ」と告げられた。私は最初ポカンと聞いていたが、続けて「眼にレーザーをあてて今後出血しそうな毛細血管を焼き切るんだよ〜」と聞かされた時には膝が震え出していた。


暗い別室に案内されると、そこにはメガネ屋で視力測定の時に使うような「覗き穴」がある、いかつい機械の前に座らされた。穴を見ると奥には赤い光が発射の瞬間を今か今かと待ちわびているようになんだかグルグルと回っているように見えた。

院長が「さあ、1発目いくよー!」と言った瞬間、奥に見えた赤い光の玉は一気に何十倍にも拡がり、私の眼球めがけて飛んできた。

「うおおおおおおっ!」



ビビビビビ!と音を出しながらやって来たレーザー波は私の眼球の血管を焼き切ると共に、その衝撃で後頭部に激しい痛みをもたらす。

院長は「大丈夫〜?」と訊ねてくるが、大丈夫なワケが無い。私は言葉も出せずにうずくまっていると「ハイ、2発目いくよー」


そうだ、これは『波動砲』だ。ターゲトスコープで私の毛細血管に照準をあわせ、『エネルギー充填120%!3、2、1、波動砲発射!」

ピカッ!ズドーン!!


『うおおおおおおおっ!泣』





即座に『全身麻酔』の使用を懇願したが、またも「そんなの無い」と言われ1回目は10発ほど被弾、後日更にもう10発ほど被弾して終了。現代医学に「荒治療」という言葉があるのなら、まさにこの『レーザービーム』が『荒治療の筆頭』と言えるのではないかと思った。治療は終わっても衝撃による後頭部の痛みは続き、しばらくの間は、あの波動砲に撃たれる夢を何度も見た。


それからは名医のおかげで幸いにも「再発」はしていないが、これだけは記しておこうと思う。


「四十過ぎたらいい気になって高いところから川に飛び込むなっ!」ww







それから約7年経った2021年4月上旬。左瞼が腫れ上がり眼からは涙が流れ続けている。花粉のせいだと思ってしばらく放置していたが、なかなか治らないので7年ぶりにまた『ほしあい眼科』に行った。

今回は眼にバイ菌が入って炎症を起こしているとの診断。マジかー。


それから1週間、私はすべての仕事をキャンセルして『絶対安静』に努めた。っていうより、明るいところで眼を開けられないので、そうせざるを得なかった、というのが本当のところ。なぜなら週末には1年2ヶ月ぶりのキャンプの予定があったから。





私は普段は眼鏡の使用はしていないし、免許証も『眼鏡使用』にはなっていないが、日中の運転時には度付きのサングラスを使用している。白内障の手術をしているとやはりフツーの人より光が眩しく感じるためで、今までは透過率50%の『やや暗い』程度の色だったが、今回は例え眼が治りきらなくても、なんとしてもキャンプだけは行くぞ!と、『透過率85%』の1番暗いサングラスを作った。
ほしあい眼科で眼鏡処方箋を出してもらい、隣接のメガネ屋で1番安いフレームを選ぶが、やれ『乱視』やら、『カラー入れ』やら、『スーパーハードコーティング』やらと値段は増えていき、結局1本3万円。フツーのRay-Baより高くなってしまったが、まぁ仕方ない。


今回もまた2週間ほど仕事を休みずっと眼を閉じて過ごしていたが、総論としてこれだけは記しておこうと思う。。




「もういい歳なんだから、なんかおかしかったらすぐに医者へ行け!」ww






わかっちゃいるんだけどねぇ。



  


Posted by Suika with C at 11:14Comments(8)闘病記

2021年04月20日

眼が見えなくて2週間なんも出来なかった話し①

朝、ベッドで目を開けたら「なんも見えねぇ!』という経験をしたことがあるだろうか?




7年前の夏、私は高知の清流・吉野川にいた。自身の誕生日祝いとしてmont-bellの主催する「日本一の激流吉野川ラフティングツアー」に参加するためだ。平日というのもあって8人乗りのラフトボートには妻と2人だけだったが(mont-bell店員さんが舵取り)、その日は台風明けで吉野川の水量は多く、「日本一の暴れ川」の名に偽りは無かった。声を掛け合いながら迫り来る急流ポイントへ果敢にアタック!鬼気迫る顔ながらも、それはそれは見事なファイトだった。



モンベルアウトドアチャレンジ
https://event.montbell.jp/sp/plan/list.php?cid=12&gid=19


数々の急流ポイントをこなしたあとは、緩やかな流れのところで大岩からのダイブやカヌーに乗ったりと楽しい時間を過ごして、mont-bellのベースに戻りシャワーを浴びて夕方に解散した。




休暇村南淡路キャンプ場


その日は兵庫県淡路島の『休暇村南淡路』に宿を取っていた。この休暇村はサイトが海の目の前にあり、今では予約もなかなか取れない人気のキャンプ場を併設しているが、当時の私は「真夏にキャンプなどしてられっかよっ!」だったので、朝・夕とも南あわじの新鮮な地魚が並ぶ「豪華海鮮ビュッフェ付プラン」をとても楽しみにウキウキしながら車を走らせていた。



休暇村南淡路
https://www.qkamura.or.jp/sp/awaji/



ところが運転中に視界がやけに霞む。「まぁプールに入ったあとに目が霞むヤツと同じだな···」と何度も目をこすりながら走っていたが、淡路島にたどり着いた頃には、とても車を運転するような状態ではなくなっていた。




ホテル前の駐車場に車を停めて、妻の肩につかまりながらチェックイン。誰が見ても『盲目のお客さん』で、事実ほとんど見えていなかった。部屋に行くと早速妻は宿自慢の『展望露天風呂』に行ってくると言う。瀬戸内海の夕陽を見ながらの入浴はきっと最高だろう。それを想像したら「行かないで〜」と妻を止めるコトはできなかった。

妻が部屋に戻ったらおまちかねの「豪華海鮮ビュッフェ」の時間だ。妻に手をひかれながらダイニングへ。妻がお皿にいろいろ取ってきてくれて、私はそれを口に運ぶだけ。食事において「視覚」は重要な「美味しさ」の1つなんだなと改めて思わせる時間だった。






翌朝、起きた時に衝撃が走った。昨日までは白く濃いモヤがかかった感じだけど、目の前に人がいるとか、ここは窓、ここは扉、とぼんやり見えていたのだが、この時は「衝撃」というよりも「恐怖」の方が勝っていたかもしれない。墨汁がダラ〜と垂れているような、黒い液状のモノが私の視界を完全に奪っていた。


「うわ〜なんも見えねえええっ!」



今まで生きてきた中で1番のパニック状態だったかもしれない。これが自宅ならまだしも、ここは兵庫県淡路島の田舎町。どうすればいいのか考えがまとまるまで数分かかった。



「そうだ、まずは『医者』だ。」

とはいえ、こんな島の片隅に病院は無く、まして『眼科医』などいるハズも無い。妻がスマホで調べると病院はここ南淡路市から3〜40km離れた島の中心部「洲本市」にあるコトがわかった。



「よし、行こう!」

私は視力の95%を失っていたが、右目の右下に5%ほどの視力が残されていた。もちろん信号は見えないし前方の車は見えないが、運転席に座るとかろうじてセンターラインがぼんやり見えている。私は妻に「よし、今からおまえは『人間カーナビ』になって道路状況を正確に俺に伝えてくれ。『海がキレイだね♡』とか『美味しそうな蕎麦屋さんがあるよ!』とかの情報は要らない。前方の車との距離と信号の色を中心に頼む!」


運転免許を持っていない妻にこれ以上のプレッシャーはなかっただろう。目の見えないドライバーが運転する車の助手席に座って、知らない町を30km先の病院まで案内するのだ。私もかすかに見えるセンターラインだけを頼りにアクセルを踏むが、かなりビビっって妻に話しかける口調が荒くなり、道中は怒鳴り合う局面が何度もあった。

島の南西部「南あわじ市」から反対側の「洲本市」までは幸いにも国道28号線の1本道。私はセンターラインで車を走らせる位置を確認しながら、妻は信号と前方の車の距離を私に伝える。「今、前の車ブレーキ踏みました。今、止まりました。」「左側に自転車走っています、あ、いなくなりました。信号『青』です。」。

そうして約30kmの道のりを3時間近くかけて昼頃に洲本市の眼医者に到着。医者から「2〜3日で見えてくると思いますよ〜」と言われたので、近くのマリーナにある高級リゾートホテルにチェックイン。妻は翌日会社出勤だったので、そこから神戸行きのバスに乗り新幹線で1度帰宅、私は丸3日間、妻が買ってくれたコンビニのパンとおにぎり・カップラーメンで、窓からヨットハーバーlの景色もテレビも見えないダブルの部屋で何も語らずに過ごした。



淡路島・海のホテル島花
https://www.shimahana.com/



3日後、東京から妻がやって来た。「いや〜悪かったね。さぁ、帰ろうか。何だったんだろうね、あれ。」と迎えたかったのだが、私の目は墨汁の液がダラダラと垂れたまま。あのヤブ医者め。

仕方なく運転代行の業者が動き出す夜まで待って、私たちと車をもう1度四国に戻り徳島港のフェリー乗り場まで運んでもらい、フェリーの出発は翌朝なので港で一晩を過ごした。フェリー乗船時は、運転者以外車に乗っていることが出来ないのでここが最大の緊張時。乗船コースには誘導員もいるが、まさか「眼が見えないんです〜」とは言えず、なんとかわずかに見えている前の車に煽り運転さながらにピターっとくっついて無事乗船。さぁ、あとは『東京』に着いちまえばどうにかなる!と、ずっと何も見えないまま太平洋の海原を丸1日かけて東京の有明港へ向かった。



オーシャン東九フェリー
http://www.cs-cruise.co.jp/my/shikoku/ferry_OTF02.html





後半に続きます。


眼が見えなくて2週間なんも出来なかった話し②
https://seasonbest.naturum.ne.jp/e3409454.html


  


Posted by Suika with C at 15:15Comments(4)闘病記

2017年03月24日

ようやくキャンプレポできる日が来ます!汗

通院先の院長から「オンラインHDF」について下記の説明を受け今日から開始です。

【治療について】
【方法と評価】(治療効果の確認)
【治療開始の基準】
【治療実施の注意点とお願い】


この治療は通常の血液透析では十分に除去しきれない原因物質のより積極的な除去を目的とします。


厳格な基準に基づいたウルトラピュアな水を精製できる施設にしかできない現在の透析技術の最先端を行く治療です。


血液透析を始めて1年。なにか問題があったわけではなく、10年先20年先を見据えた移行です。






医師から透析患者の5年生存率が約50%と聞いた時は

「TOKYO 2020」だけは観たいなぁ、などと思っていました。


なので「10年」なんてそんな長い期間を口に出すことすら辛かったのですが


今は京都までリニアに乗って行ける気がしています。笑




人生終わったぐらいの絶望感もありましたが

こうして治療を受けながらナチュログを読んだりキャンプ場検索したりと明るく過ごしています。



支えてくれる妻や医療スタッフの皆さんと

弊ブログを読んだりコメント残してくれる皆さんへ

心から感謝申し上げます。






さて、テントとシュラフは車に載せてある。


終わったらめろん連れてキャンプ行くぞ〜!!

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Posted by Suika with C at 16:37Comments(0)闘病記

2017年02月10日

障害者手帳がスゴい

人工透析を継続的に始めると、お住まいの自治体からもれなく「障害者手帳」がもらえる。

手帳は【身体】【精神】【療養】と3種類あるが、透析患者は「身体障害者1等級1種」に分類される。(障害者同士ではさらに「内部障害者」と称される)

私が発行された時の手帳カバーは赤色だったが、埼玉県は昨年秋より濃紺色に統一され、これにより提示する場面では、他の人から見られてもなんの障害かわからなくなった。他の障害者への配慮だろう。


その手帳は様々な恩恵を受けることができる。

金銭的なことがほとんどだが、1番は「特定疾病療養受領証」と「心身障害者医療費受給資格証」により、医療費の負担がなくなることだ。(2等級以上)

これは保険の適用範囲内であれば当該疾患の治療だけでなく、歯科や眼科はもちろん、ガンの治療から腰痛の湿布まで、さらには禁煙外来にも使うことができる。行かないけど。


中でも透析患者は破格の待遇に思える。

透析費用の年間500万円を負担していただき、静かな音楽が流れ空調行き届いたクリニックで世界最高の透析技術を受けさせてもらえる。

他の先進国では、ある年齢になると自己負担になる国もあるらしい。

今や国内で30万人を越える透析患者。この国にいることを感謝して少しでも恩返しなければ。


公共交通機関や映画館など連れ添いの人も含めて半額。(1種要介護のみ)

高速道路(ETC)は各種割引後の50%OFF。

キャンプ場も50%OFF!(になるところもある)

アーリーで入って電源サイト6泊7日が2人で13,000円。温泉入って光熱費もかからなかった。

なんだかこのまましばらく住みたいな、とさえ思えた。





警察署では道路駐車許可のステッカーをいただいた。

セブンイレブンでは入口最短の場所に停められる。停めないけど。


他にもいろいろな制度がたくさんあるこの手帳。

でもこの特典は障害年金保険のような「権利」ではなく、健常者や各企業のみなさんの「ご厚意」で成り立っている。



手帳交付時に福祉課のお姉さんに次回更新はいつですかと尋ねたら、

「あ〜、更新は要りませんね〜。」



つまり治らない疾病だということ。

あ〜あ。




  


Posted by Suika with C at 09:16Comments(0)闘病記

2017年02月09日

保存期から導入透析へ

病名:慢性腎不全(CKD)

これが私の診断書に書かれた病名だった。

3年前の健康診断で異常値が出てから様々な経過を経てここに行き着いた。


人間の体に腎臓は2つある。腎臓は体の水分量を調整して血液の塩分や毒素を体外に出して血圧をコントロールしたり、血液を造るホルモンを分泌したり・・・等々。

まあ生きていくには不可欠のモノである。

そこが壊れてしまえば上記の逆の症状が体を襲う。

3年前の健康診断では極度の貧血が見られた。

2年前は全身にむくみが出て、68Kgだった体重が84Kgになった。(2週間の入院・利尿剤で対応)
血圧は180前後。



※低たんぱくごはん 1600kcal/day



腎臓はその機能が50%を切るまで自覚症状は出ない。

この時点で私の推算糸球体濾過量(eGFR)は16%。

15%を切ると「G5」ランクに昇格、医師から「腎不全」と診断され腎臓移植か人工透析の選択を迫られる。

他に血液中のクレアチニン(Cr)という腎不全の診断目安になる数値がある。

正常な人で1.0以下。5.0で透析準備(利き腕の逆にシャント作成)、10.0で透析開始。

クレアチニン=毒素と思っていただいてほぼ間違いはない。

高い数値で放っておけば数日で尿毒症が全身にまわり天に召されるだろう。

私は水分制限と低たんぱく米や塩分摂生で約1年間2.0〜3.0を死守していたが(保存期)、

クレアチニン数値よりも、貧血や軽い尿毒症による体のダルさが深刻だった。

階段は登れない、食事はとれない、寝ても覚めても気持ち悪いし、なにもやる気がおきない・・・。

私の主治医は心配性で(その方が良い)、早めのシャント作成(透析用の血管を腕に造る手術)、
早めの透析移行を勧めていたが、

私は「透析だけは少しでも延ばしたい」と提言を受け入れなかった。(今思えばバカ)

ただ昨年も年越しキャンプに出かけたが、テント設営後は1週間ずっと寝ていたことしか覚えていない。

キャンプから帰ってきてからも体調は悪くなるばかりで、緊急時のことも考えて渋々1月末にシャント作成の手術を受けておいた。


2月になってからは口からアンモニア臭さえ自覚するようになった。

100mも歩けない。

5分も立っていられない。

横になると喉の奥からヒューヒューと音が出る(肺に水が貯まっている)。

そして後で聞いたのだが、救急車に運ばれた日、私はまさかの「インフルエンザ」に感染していた。


風邪や熱は腎臓に極度の負担をかけ、空前の灯火だった私の腎機能を著しく低下させていた。(搬送時Cr11.8)

それにより尿毒症は加速度を増し、インフルエンザと共に心不全を誘発したのだ。もうボロボロ。笑


その時はまだシャント手術を行ったばかりで使うことができず、

埼玉医療センターでは首の動脈に穿刺して緊急透析したらしい。

数日して容体も落ち着き、そこから主治医のいる総合病院に医師立ち会いで救急車で搬送、2週間の導入透析を行った。

この入院で筋力も奪われ、3日間は車イス、残りは歩行器を使ってのリハビリとこれからの透析生活の為と心不全も起こしていたので、負担のかかる心臓のカテーテル検査を行った。


総合病院でもICUに入れられ、24時間ピッ、ピッ、ピッ・・・という音と共に過ごした。

口に酸素吸入マスク、腕に点滴、体と足にいろいろなコードを貼られ寝返る筋力もない。

夜は暗い天井を見つめ、毎週ゴルフに明け暮れていた頃を思いだして涙した。



妻は頼みもしないが毎日来てくれた。

大丈夫だよと断ったが、本当は顔を見ることが1番嬉しかった。

声が出なかったので筆談で話した。

1時間程度しか面会時間がないのに、仕事を終えて電車とバスを乗り継ぎ、寒空の中に来てくれた。

ベッドの横に座り、弱音を聞いてくれて、励ましてくれて、また明日くるねと毎日言ってくれた。


言葉にできないほどの感謝。おそらく私は彼女に一生頭が上がらないかもしれない。

あのときは本当にありがとう。

あれから1年。長いようで短かった。

こんな体になってしまったけど、今はこうして元気に生きている。

ありがとう。


  


Posted by Suika with C at 08:52Comments(0)闘病記

2017年02月08日

ご挨拶

2016年2月8日

ちょうど1年前、私は救急車で運ばれていた。

なんか調子が悪いので病院に行くと妻にメール。車のエンジンをかけたけど、次第に息苦しくなって意識が遠のいていく。

「マズい、運転なんかできない・・・。きゅ、救急車!」

119番に初めて電話した。まともに声を出せなかったけど、なんとか自分のいる場所は伝えることができた。数分で遠くからサイレンの音。

「あれ?このまま死んじゃうのか!?」

隊員が救急車を降りて私を探している。私は声を出すことも車から出ることもできず、ひれ伏していたハンドルのクラクションを何度も押した。

隊員は駆け寄り、私は車から降ろされると同時にストレッチャーに乗せられ救急車へ。すぐにパルスオキシメーターを指にはめて血中酸素濃度を計測。隊員が顔をしかめ「75%・・・」と言ったのが車内の最後の記憶。



目を開けたら集中治療室。両手両足に点滴やら機材の線が無数に貼られ、口にはテレビで見たことのある人工呼吸器がシューシューと強制的に私を呼吸させている。(心不全NYHA3度)

横を向くことも出来ない状況の私の視野に妻の顔が入ってきた。

「俺はなんでここにいるの!?ってか、ここはどこ?」

聞きたいけど声は出ない、出せない。必死で目で訴えるが、伝わるのは映画やドラマの世界。だけど一生懸命に話そうとする私に妻は手を握ってくれた。

「お・れ・は・し・ぬ・の・?」

今までに「指文字」なんてノロけたことはしたことないが、妻は的確に読み取ってくれた。

そして心配かけまいと軽く笑みを浮かべながら先生を呼び、
医師の口から「死にませんよ〜」と聞かせてくれた。

それを聞いた私は安心したのか、その後3日間程度眠り続けた。



後に聞いたのだが、私が病院に運ばれたのが正午頃。最初の病院では対応できず埼玉医療センター(自治医大付属病院)へ。
妻が何度も何度も私の携帯に電話をして、医師から事情を聞いたのが深夜未明。タクシーでかけつけ「死なないよ〜」と言ってくれた医師から別室では心の準備をしておくように言われたそうだ。さぞかし驚いたし怖かっただろう。

そんなことを医師から聞いた後、患者に笑顔を見せることなど私にはできやしない。やはり妻は1枚上手なのだろう。スゴいなぁ。





そんな1年前の出来事ですが、こうしてまだ生きている喜びと、これからの挑戦、そして妻への感謝を「旅日記」として綴ってみたくなりブログ開設の運びとなりました。

古い携帯電話からの更新なので機能もかなり制限されているようですが頑張ってみたいと思います。どうぞよろしくお願いします。



  


Posted by Suika with C at 08:00Comments(2)闘病記